東日本大震災五年「慰霊復興祈願祭」奉修

1.前夜のつどい ~それぞれの想い~(3月12日 19:00~)

 3月12日(土)19時~、翌日の慰霊復興祈願祭のために前泊された方およそ20人で、教会のお広前にて前夜の集いを催し、それぞれに5年間を振り返りました。 はじめに震災当時、金光教災害ボランティア支援機構の議長を務められた田中元雄先生に乾杯のご挨拶をいただきました。震災直後に気仙沼で支援活動を行なうことを決められた時のお話しなどをお聞きしました。改めてここからはじまったこの5年間であったと感じさせられました。

 しばらくの歓談を挟み、翌日の祭典の歌である「ふるさとは今も変わらず」を皆さんで練習しました。震災後に歌手の新沼謙治さんが作詞・作曲された歌です。新沼謙治さんはお隣の岩手県大船渡市の出身で、大船渡市も津波の被災が大きかった地域でした。

 続いて、全員の方にスピーチをお願いしました。参加された方々は全員、気仙沼でのボランティア活動に関わられた方々であり、この5年間を振り返りそれぞれの今の思いを語って頂きました。参加された皆さんが感じていることだと思いますが、被災地に来てボランティア活動に参加して、夜のミーティングでそれぞれの思いや被災地で感じたことを語り合い、そして帰って行く。そのような経験をした人の生き方が変わって行ったということを感じました。 特に若い人達への影響は大きかったと思います。

 金光教東京学生寮の寮監である辻井篤生先生のスピーチの中で、寮生時代に気仙沼でボランティアを経験して、今は卒業して社会人となっている人達が、それぞれの持ち場立ち場で、人のお役に立とうと仕事に一生懸命に頑張っており、活躍しているという報告がありました。ボランティア経験が若者たちの人生に大きな影響を与えているようです。

 そしてもう一人、東京寮の卒寮生で現在は社会人として神奈川県川崎市在住の平石碧海さん(23歳)のスピーチです。彼女は、震災の日がちょうど大学受験の日だったそうです。都内も地震で大混乱でしたので、ご両親もさぞご心配だったことでしょう。彼女は無事に大学に合格し、東京寮で生活するようになりました。度々寮生たちと気仙沼に訪れてボランティア活動に参加し、様々な体験を重ねていらっしゃいました。そして今は社会人となり、今年の3月11日は金曜日でしたので、仕事を終えてから夜行バスで12日の早朝に気仙沼に到着しました。 スピーチでは3月11日14時46分の職場の様子を報告してくれました。学生時代はアルバイト中でも、こっそり抜け出して一人被災地に思いを馳せ、慰霊と復興への祈りを捧げていたそうですが、社会人となった今年は抜け出すことも出来ず、職場でその時を迎えたそうです。時報もサイレンも無く、まわりの人は何事もなく普通に仕事を続けている光景があり、彼女は違和感を感じたそうです。その日仕事を終えて夜行バスに乗り、翌朝気仙沼に着き、被災地の状況を見ると、まだまだ復興には程遠く、東京での震災風化と気仙沼の被災の現実とのギャップに驚きを感じたと、語ってくれました。

 この震災5年は、被災地だけの5年ではなく、関わった方すべての方々にそれぞれの5年があると感じました。こうして皆さんで語り合うことが出来、5年という節目を迎えるにとてもふさわしい時間となりました。  集いが終わってキッチンに戻り、父が「あ~楽しかった」と、ひとこと呟いたのが心に染みました。その後、お広前では深夜までか語らいは続きました。


2.東日本大震災五年「慰霊復興祈願祭」奉修 (3月13日 13:00~)

~五年祭にかける願い~  

 昨年の夏ごろから「5年の節目をどう迎えるか?」という課題を抱えながら、過ごしてきました。震災当初の避難所としての教会、ボランティア活動の拠点としての教会、乙女の会をはじめ被災された方が気軽に集える教会など。5年間を振り返ると教会としての機能も様々な側面を現して来ました。しかし、その中心となる視点は地域の方々であり、被災された方々に向いていました。五年祭は被災された方、地域の方々が気軽に参加できるものにしたいと考えました。

 もう一つは慰霊と復興への「祈り」がこもった祭典となることを目指しました。参拝が出来なくても「私の祈り」というカードを提出していただければ、その人の願いや祈りを参拝者皆さんで祈ることができる。またその後も教会では、ずっとご祈念していこうという考えから、「私の祈り」のカードを紫市場商店街の方々や、支援活動でご縁のある仮設住宅なのにも配布させて頂きました。

 結果として、紫市場商店街の方や地域の方々、更にボランティア活動でご縁を頂いた被災者の方、もちろんボランティア活動で気仙沼にご縁を頂かれた方々など、たくさんの方がご参拝になり、「私の祈り」のカードは約100通が届けられ、祭典では神前にお供えさせて頂きました。


第一部 発 表 

「終わりのない未来へ」小野寺 寅雄氏 金光教気仙沼教会の信徒会長であり、震災当時南町2区の自治会長として、地元の方々と一緒になって避難所の運営に当たられた小野寺寅雄さん(76歳)より、「終わりのない未来へ」と題して、震災当日の事から、復興商店街「南町紫市場」の立ち上げ、また今進んでいる南町の新商店街の建設のことなどをお話されました。

 お話に当たっては、自ら製作された同じ題名の写真集が参拝者全員に配られ、「昔の紙芝居のように、その時々の写真を見ながらお話したほうが分かりやすいでしょう」と前置きしてお話されました。 講題の「終わりのない未来へ」は、金光教の歌「新しいいのち」からの引用だそうですが、歌詞には「計り知れない深い過去から、終わりのない未来へつながるいのち~」とあります。震災5年を迎えたいまという時間は、計りしれない深い過去から続いて来たいまであり、それは復興という未来へつながるいまであると感じました。


第二部 祭 典 東日本大震災五年「慰霊復興祈願祭」  

 奥原志郎教会長先生が祭主を勤め、長期間に渡り気仙沼に滞在しながらボランティア活動を支えてくださった歴代の支援機構現地代表である嶋田洋先生(埼玉・所沢教会)、田中真人先生(東京・大崎)、清水幹生先生(山口・宇部東)が祭員を仕えられました。そして全員が玉串を捧げ、この震災で亡くなられたおよそ2万1千柱の御霊様の立ちゆきを祈るとともに、地元の復旧復興、福島の原発事故に伴う被災者の皆様が安心して故郷に帰れるよう祈らせて頂きました。


第三部 交流会  

 交流会ではケーキとコーヒーなどを頂きながら、ここまでの5年の歩みやお祭りの感想など語り合いました。地元の方々とボランティアで来た人たちとの思い出話や5年前を振り、あちらこちらで話が弾みました。



≪番外編≫  かき小屋 唐桑番屋(3月12日 お昼)

 11日に気仙沼に来られた方や12日に到着された方々11名で、牡蠣を食べに「かき小屋 唐桑番屋」を訪れました。メニューは1,500円で牡蠣15個または牡蠣10個とホタテ2枚のミックスがあり、今回は牡蠣とホタテのミックスを11人前注文しました。 目の前の鉄板に100個以上の牡蠣と22~3枚のホタテがどさっと盛られ、みんなは驚きの表情。鉄の蓋をかぶせて10~15分程度蒸し焼きして豪快にいただきます。みんな、まだかまだかと蒸す上るのを待ちました。時折お店のおじさんが来て、のぞき窓から中をのぞいて確認。「ん~まだだな~」とか言って、さらに3分待つことに。やっと蒸しあがり、鉄の蓋を開けると、湯気と磯の香りとがモワッと立ち上り、みなさん「オーッ」という歓声と共に、スマホで写真を撮りまくり。

  お店のおじさんから食べ方のレクチャーを受け、左手には二重のゴム手袋、右手は牡蠣むき用ヘラを握りしめ、早速牡蠣むきに挑戦。 (食べ方) ①牡蠣のカラの隙間にヘラを突き刺し、グリグリとヘラを押し込みます。 ②カラの隙間にヘラが入ったら、そのまま突き刺してカラの中央よりやや左側にある貝柱をはがし、上側のカラを外します。 ③下側のカラについている貝柱も外すと、牡蠣の身がカラから外れ、食べることが出来ます。 ④そのまま食べても充分美味しいのですが、数個食べると味に飽きてくるので、レモンを垂らして頂くと、さらに美味しさが際立ちます。 ※カラの中には牡蠣のエキスがたくさん詰まっているので、こぼさないように注意が必要です。 皆さん大満足のカキ小屋体験でした。